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東京地方裁判所 昭和46年(刑わ)47号 判決 1972年8月22日

主文

被告人は無罪。

理由

一、公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、自動車運転の業務に従事する者であるが、昭和四六年一月一日午前零時一五分ころ、普通乗用自動車を玉川方面から渋谷方面に向かい時速四五ないし五〇キロメートルで進行中、当時地下鉄工事現場の照明および対向車の前照灯のため、前方の見とおしがよくない状況であつたから、いつそう前方注視に努め、減速して進行すべき注意義務があるのに、前方注視不十分のまま、時速約四〇ないし四五キロメートルに減速したのみで進行した過失により自車を、同道路を左から右に横断するため道路中央付近に佇立していた渡辺トシ(当時五〇年)に衝突させ、よつて同女を同月一三日午後零時二八分ころ、同区三軒茶屋二丁目二四番地一七号井上外科病院において、外傷性下部ネフロン腎症により死亡させたものである。」というのであり、検察官は、当裁判所の釈明に答えて、被告人の減速義務の根拠および程度につき、「事故発生現場の約五〇メートル手前の地点(昭和四六年一月一八日付実況見分調書―以下、第二実況見分調書という―添付図面点)で、事故発生現場付近が工事中で暗くなつているのが確認できたのであるから、右地点付近で、毎時三〇キロメートル以下に減速して進行すべき注意義務が生じた」旨述べた。

二、当裁判所の判断

関係証拠を総合すると、本件事故発生の経過はおおむね、つぎのとおりであつたと認められる。すなわち、被告人は、公訴事実記載の日時ころ、普通乗用自動車を運転して世田谷区三軒茶屋二丁目一一番一号先道路(幅員25.6メートル制限速度時速五〇キロメートル)を玉川方面から渋谷方面に向かい、時速四五ないし五〇キロメートルの速度で進行していた。ところで、当時右道路においては、対向車線をほとんど間断なく去来する対向車の前照灯の光で、とくに道路中央線寄りの物体が視認しにくい状況であつたが、右進路の前方に地下鉄工事現場のやぐらがあり、右現場の照明の影響も多少あつて、前方の見通しが、さらにいくぶん悪化したように思われたので、被告人は右工事現場の五、六〇メートル手前で、速度を若干下げ、時速四〇キロメートル前後の速度で進行したところ、自車の進路右前方約12.5メートルの地点の中央線付近に佇立する被害者渡辺トシの姿を認め、ただちに急制動の措置をとつたその直後、同女が突如体を開いて、後方へよろよろと後退してきたので、避け切れずして、同女との衝突を惹起してしまつたものである。

右事実を前提とし、検察官は、被告人には、(1)前方注視義務違反と、(2)減速義務違反の各過失があると主張する。そこで検討するに、

(1)  前方注視義務違反の存否について

被告人は、前記のとおり、被害者トシの姿を前方12.5メートルの地点にはじめて発見したのである。したがつて、もし、本件において被告人に前方注視義務違反が肯定されるためには、少なくとも、当時の状況において、被告人がこれよりも早い時点で、少なくとも、自車の制動距離の範囲外に同女を発見することが可能であつたのに、特段の事情なく、その発見がおくれた、との事実が立証されることが必要である。しかしながら、関係証拠を総合するも、本件において、右の点が、合理的疑いを越えて立証されたということはできない。すなわち、一般に、自動車の前照灯は、下向きで三〇メートルの範囲が照射可能のように設計されているから、本件においても、少なくとも事故地点の三〇メートル手前の地点において、被害者の発見が可能であつたのではないかと一応は考えられるが、前照灯による照射範囲内であつても対向車の前照灯の位置、光度のいかんによつては、道路中央線寄りの物体が、きわめて見にくくなり、あるいは、一時的にせよ、完全に見えなくなることのありうることは、経験上明らかなところである(なお、最高裁判所事務総局編・交通事件執行務提要五八七頁以下参照)。被告人は、当公判廷において、「当時、対向車線には、現場一〇〇メートル手前あたりから、対向車両が間断なく来ていた」との供述をしており、右供述は、被告人の捜査当時の供述とも矛盾せず、むしろ、司法警察員作成の写真影撮報告書等によつて、ある程度その真実性が客観的に担保されているのであるから、被害者が被告人車の通常の照射距離の範囲内に入つたとの一事から、右時点において被害者の発見が客観的に可能であつたと断定することは困難である。つぎに検察官が被告人の前方注視義務違反の事実を推認すべき証拠として重視する司法警察員作成の昭和四六年一月一八日付実況見分調書ならびに同日付被告人の司法警察員に対する供述調書の内容について一言するに、右は同日、午後六時三〇分ころから約一時間にわたり、事故現場付近において、前方の見通し状況を被告人立会いで確認したものであるが、右実験の結果によつても、「事故地点から五〇メートルの地点では、対向車があつた場合は、よくわからないが、対向車がない場合、人らしい影が見える。同三〇メートルの地点でも、対向車がある場合はわからないが、ない場合はだいたいはつきり見える。同19.2メートルの地点に来てはじめて、対向車があつてもぼやけて見えてやつと見えるが、強いライトや対向車が大型車の場合は、よくわからない。」という事実がうかがわれる程度であつて、それ自体、被告人が被害者を現実に発見したより早い時点において、自車の制動距離の範囲外に被害者を発見することが確実に可能であつたことを認めるに十分な内容のものであるとは認め難いのみならず、右実験の結果は、被害者が佇立していたと認められる地点に警察官を立たせたうえ、前記各地点に停止させたパトカーの車内から右警察官をよくよく注視して得られたものであつて、右車内から視認可能であるからといつて、時速四〇キロメートル以上で走行する車内から、果たして存在するか否かの明らかでない物体が視認可能であるということにはならない。さらに、本件衝突地点は、車両の交通のひんぱんな深夜の国道上であり、横断禁止場所にこそ指定されていないが、その手前八〇メートルおよび前方一五五メートルに存在する二本の横断歩道の中間であつて、通常横断者の存在を予測し難い場所であるから、かりに、右地点に接近する途中において、被害者を発見することが物理的に可能な瞬間があつたとしても、その瞬間ただちに同女を発見しなかつたことを把えて、いわゆる前方注視義務の懈怠があつたときめつけるのは、条理上いささか酷に失するであろう。

以上のとおりであつて、他に特段の事情の認められない本件において、被告人に前方注視義務の懈怠があつたとの事実は、未だ合理的な疑いをこえて、立証されたということはできないと考える。

(2)  減速義務違反の存否について

つぎに、検察官は、被告人には、前掲実況見分調書点において、時速三〇キロメートル以下の速度に減速して進行すべき注意義務があり、被告人は、右注意義務に違反していると主張する。しかし、さきにも一言したとおり、本件事故現場付近のように、通常横断者の存在を容易に予測し難い場所において、前方の見通しが一時妨げられたからといつて、自動車運転者に、ただちに、制限速度の半分に近い時速三〇キロメートル以下に減速すべき注意義務が生ずるとは、にわかに断言し難いといわなければならない。たしかに、前記のとおり、本件当時被告人車の前方の見通しは決して良好ではなかつたから、より減速して進行すればより安全であつたとはいえるであろう(ただし、その場合でも、本件事故の発生を未然に防止できたかどうかは疑問である。この点は後述する。)しかし、だからといつて、本件のような横断歩道もなにもない、交通ひんぱんな深夜の国道上において(なお、検察官は、本件事故現場付近が交差点を形成していたと主張するが、交差道路の幅員は、被告人車の進行していた道路のそれに比し、きわめて狭く、「交差点」という概念の中に入るか疑問となる程度のものである。)、対向車のライト等で見通しを妨げられる都度、時速三〇キロメートル以下に減速しなければならないとすれば、自動車の高速度交通機関としての特質は失われ、交通の現状に調和しない結論になるであろう。(なお、検察官は、判示事故現場付近の見通しを妨げていた原因を、前記工事現場の存在に求めている。たしかに、右工事現場の存在と、同所付近の見通しがまつたく無関係であつたとは断定できないが、さればといつて、右工事現場の存在の故に、現実にどの程度見通しが悪化していたのかを知る的確な証拠が見当らない本件においては、判示事故現場付近における検察官主張のような減速義務の根拠のきめ手を、右工事現場の存在に求めるのは疑問である。右事故現場付近といえども、対向車のない場合の見通しは、必ずしもさして悪くはなかつたことが、前掲被告人の供述調書によつてもうかがわれるのであるから、被告人車からの被害者の発見がしかく困難であつた決定的な原因は、むしろ、被害者の佇立位置が道路中央線付近であつたこと、および前照灯を点灯した対向車が連続して去来していたこととに求めるのが相当であり、そうであるとすれば、同所付近における減速義務およびその程度を、右工事現場の存在しない他の場所と明確に区別して論じ、右現場付近においてのみ検察官の主張するように、制限速度の半分に近い大幅な減速義務を認めるのは、困難なことである。かりに、右現場付近の見通し―とくに右前方、道路中央線付近に対する見通し―が、他の場所よりいくぶん悪く、条理上若干の減速義務を生ずる余地があるとしても、本件において被告人がなしたように、制限時速五〇キロメートルのところを、時速四〇キロメートル前後に下げて進行したことでは足りず、さらに一〇キロメートルの減速を必要とすると解する決定的な論拠は、にわかにこれを見出し難いというべきであろう。)

もつとも、被告人が、前記点で被害者の姿を発見することが可能であつたとすれば、右事実を前提として、被告人の減速義務を論ずることは可能である。道路中央線付近に佇立する横断歩行者が存在する場合は、右歩行者が、前後両面の車の流れに危険を感じる等して、とつさに前進または後退の動作に出ることは、経験上予測可能であるということができるから、かかる歩行者の存在を認識した自動車運転者としては、条理上歩行者との十分な間隔を取るか、あるいはそれが不可能な場合には大幅な減速あるいは徐行することを要求されるであろう。しかしながら、本件においては、前記点を含め、被告人が現実に発見した地点よりも手前の地点から、被害者を発見することが可能であつたと断定することの困難なことは、すでに述べたとおりである。したがつて、被告人の減速義務を、かかる観点から根拠づけることもできない。

さらに、被告人車が検察官の主張するとおり、時速三〇キロメートル程度に減速していたとしても、本件事故の結果が回避可能であつたかどうかは、証拠上すこぶる疑問であるといわなければならない。すなわち、すでに述べたとおり、被害者は、被告人車が、その12.5メートルの至近距離に接近した後において、突如体を開いて、よろよろとその前面に後退してきたものである。時速三〇キロメートルで走行していた場合の被告人車の狭義の制動距離は、当時の路面の摩擦係数のいかんにもよるが、いまこれを0.7と仮定しても、おおむね5.0メートルと推算できるところ()、右距離と、いわゆる空走距離との和である、いわゆる広義の制動距離は、優に一三メートルを越えてしまう(交通事件執務提要一四九頁以下参照)。しかるに、被害者は、現実には、被告人車が一二メートル、程度に接近した後において、その前面へ進出したのであるから、かかる被害者との衝突を回避することは被告人車が、時速三〇キロメートル程度に減速していた場合でも、物理的に不可能であるということになるのである。(もしかかる事態を完全に回避するためには、被告人車は、いち早く、進路を道路左側に変更して進行すべきであつたということになるが、かかる注意義務は、本件において検察官の何ら主張しないところであるし、また、被告人に対し、そのような措置を条理上要求できるかどうか、さらには、かかる措置をとること自体に現実の困難があつたのではないか等種々の疑問のある本件において、検察官に対し、あえて訴因の変更を命じて、かかる義務違反の存否につきさらに審理するのは、相当でないと考える。)そうすると、被告人に対し、検察官の主張するような減速義務懈怠の過失を認めるのは、疑問であるといわなければならない。

(3)  結論

以上のとおりであるとすると、本件における被告人の過失の成立については、いずれも合理的な疑いを越えた証明があつたということはできず、本件は犯罪の証明がないことに帰着する。

よつて、刑事訴訟法三三六条後段により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

(木谷明)

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